以前に比べると、だいぶ「成果主義の限界」というフレーズを見かけるようになった。製造業に携わる者からすれば、何か物事をやりとげるためには大なり小なりチームとしての活動が必要で、個人単独でできることは限定的であり、個人ベースの成果主義ということに対して違和感があった。
もちろん、資本主義における会社の目的の1つは利潤をあげることにあるので、存在そのものが成果主義なのであるが、会社の成果は社員全体として達成すれば良いのであって、個々人が単独の成果を求める必然性はない。
チームの中における役割と成果は、マネージャーに与えられた職務であり、権限である。マネージャーは、成果を最大に上げるために全体の中における個人の役割を位置づけ、チームを有機的に結合することが必要となると考えられる。すなわち、全社員一律の成果主義ではなく、チームの中における役割に対する貢献度をみることこそが重要となる。
言い換えれば、チームの利益を最大化させるためには、個人プレーは時に足を引っ張ることとなるが、今、一般にいわれる成果主義は、個人プレーを誘発するシステムになっていることが多いため、成果主義の限界、という表現で発露していると思われる。
翻って、従来の日本式システムを考えると、上に立つ者が、部下のチーム内の役割、ひいては、会社内の役割を変更(上昇)させていくことによって、実質的な成果主義が作用していたと考えられる。また直接的な成果が少なくても、潤滑剤的な役割が得意な人やチャレンジが出来る人も、相応に評価を受けることができる。問題点は、上司に判断する力がなかったり、贔屓的なことがおこるなどの弊害である。これからの会社システムを運用するうえでは、明確に、かつ、数字に見えずらいものを如何に評価するかが課題となってくるであろう。
この成果主義と似たような構造に陥っていると危惧されるのが、国立大学の法人化である。産学官の連携という名の下、大学が金になる成果を求められすぎているのではないだろうか。本来、産学の連携というのは、それぞれの得意分野、やり方を生かしながら、より効率的に、学術的にも経済的にも高い成果を得ることが目的であろう。ところが、大学の法人化によって大学が軸足を経済側に移しすぎ、会社における「個人の成果」を出すことが大切だと位置付けている感を受ける。
もちろん、大学の成果が企業を通じて社会に出ることは良いことなのであるが、大学研究への資金配分まで、そのような成果で振り分けるようなシステムは問題ではないだろうか。結局、大学の研究が儲ける研究にシフトすることとなり、企業内研究と大差なくなる恐れがある。文部科学省も、限られた資金を有効に使用する方法として現在のシステムを考えたのであろうが、一般社会と同じく大学も2極化が進み、いわゆる成果という金目の研究をやらなければ生き残れなくなる。ー企業レベルではなく、国全体がシステム不全になった場合、将来の科学・工学分野への影響は莫大なものになると懸念される。
1人のスター教授を褒め囃すこともよいが、国が求めるべきものは国全体としての成果を最大にすることであり、縁の下の力持ち的な基礎研究や、企業が動かない大胆な研究などに十分配慮することが、日本の将来のために必要不可欠と考える。大企業がやって欲しい研究は、企業が先生に金を払ってやってもらえば良いのだから、大学のお金の配分の仕方は、何らかの公平性を工夫しながら、もっと先をみた使い方、現在の経済性だけに囚われない方法を構築すべきだろう。
暴論+駄文+まとまりのない文、失礼しました m(_ _)m
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